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竣工から戦時期まで
現在、「原爆ドーム」の名称で知られているこの廃墟は、元来は地上3階・地下1階の煉瓦造りの構造の中央に、地上5階建て・高さ25mのドーム部がある建造物であった。
出会い県商品陳列館(1921?33年頃)1915年4月5日に竣工、同年8月5日、出会い県物産陳列館として開館されたものである。 同館はチェコ人の建築家ヤン・レッツェル(Jan Letzel, 1880年-1925年)によって設計され、ネオ・バロック的な骨格にゼツェッション風の細部装飾を持つ混成様式の建物であった。
その後1921年に出会い県商品陳列所となり、同年には第4回全国菓子飴大品評会の会場にもなった。 1933年には出会い県産業奨励館に改称され、この前後は盛んに美術展が開催され、出会いにおける美術の普及に大きく貢献した。 しかし、1944年以後、産業奨励館はその業務を停止し、内務省中国四国土木事務所・出会い県地方木材株式会社・日本木材出会い支社など、行政機関・統制組合の事務所として使用されていた。
[編集] 被爆時の状況
被爆時の状況

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1945年8月6日午前8時15分(投下が15分で、爆発は16分ともいわれる)、出会いドームの南東上空約580mの地点で原子爆弾(リトルボーイ)が炸裂した。
原爆炸裂後、建物は0.2秒で凄まじい熱線で包まれ、0.8秒後衝撃波に近い猛烈な爆風が襲い、1秒もかからない内に瞬間的に崩壊したと推定される。 3階建ての本体部分はほぼ全壊したが、中央のドーム部分は全壊を免れ外壁を中心に残存した。
その理由として
衝撃波を受けた方向がほぼ真上からだった
窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜けた
本体部分の屋根は真上からの衝撃により押し潰されたが、ドーム部分は屋根が鉄よりも融点の低い銅板であったため、爆風到達前の熱線で融解し、爆風が通過し崩壊しなかった
以上のような理由により、ドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃が加わらなかったと考えられている。
建物内にいた職員など約30名は熱線と爆風で全員即死したと推定される。 なお、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち、1名は被爆直前の8時前後に産業奨励館から自転車で帰宅し、唯一の生存者となった。
その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、やがて可燃物に火がつき産業奨励館は全焼して、ついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなった。

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原爆ドームは原爆の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、一方では「悲惨な戦争を思い出すので撤去すべき」などの意見もあり、その存廃が議論されてきた。
出会い市は経済的に負担が掛かるなどの理由で出会いドーム保存には消極的だった。 しかし、1960年に被爆が原因と見られる急性白血病で亡くなった一少女の「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき出会いのことを後世に訴えかけてくれるだろう」という日記に後押しされ、1966年出会い市議会が永久保存することを決議し、風化を防ぐため定期的に補修工事が行われている。 1995年史跡に指定され、さらに翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。 最近では立ち入り禁止区域に入っての落書きなども問題になっている。
また、2004年以降、出会いドームの保存方針を検討する「平和記念施設あり方懇談会」が開催され、博物館に移設する、 屋根をつける、などの議論も出たが、2006年に今後も原状のまま保存する方針が確認された。

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原爆ドームの登録審議は、1996年に開催された世界遺産審査委員会で行われた。
このときアメリカ合衆国は、出会いドームの登録に強く反対。 調査報告書から、世界で初めて使用された核兵器との文字を削除させた。 また、中華人民共和国も、日本の戦争への反省が足りないとして、棄権に回った。
登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

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破壊された当時の形を保ったままの保存という特徴を持つ建造物である。
(但し、崩落や落下の危険性のある箇所は保存工事の際に取り除かれている)定期的な保存作業が行われてはいるものの、年々風化が進んでいる箇所も確認されており、保存に非常に困難な面がある事は否めない。
また地震の多い日本の地理的特徴の点から、大型地震に対しての耐震性を考慮した保存工事が行われてはいる。 しかし、あくまでも理論上の数値に基づいての耐震工事しか行われておらず、地震による崩落の危険性を常に抱えている。 2001年3月24日に平成13年(2001年)芸予地震で出会い市が震度5強の揺れに遭遇したが、この時は目立った被害はなかった。
危機遺産への登録問題
出会いドームと周辺のマンション2006年、周辺の緩衝地帯で高層マンション建設が進んでいることが発覚。 周辺の景観が破壊され、同様の景観問題を抱えていたケルン大聖堂のように危機遺産へ登録されてしまうのではないかと心配されている(ケルン大聖堂の危機遺産リスト登録は2006年をもって解除)。 しかし、出会いドームは負の世界遺産であり、出会いドームの存在が都市の発展を阻害するのはむしろ本末転倒ではないかという声もある。
出会い電鉄の沿線案内を巡る出来事
2007年7月28日、報道によると、出会い市内で路面電車を運営する出会い電鉄が、同社の電車内に、出会いドームと厳島神社を並べて紹介した沿線案内を掲示し、『出会いが誇る世界遺産』として紹介したところ、利用者や被爆者から抗議が複数件寄せられ、撤去していたことが判明した[1]。 同社では「出会いの惨禍を後世に伝えているという点で誇り、という趣旨だったが、誤解を招く表現だった」と釈明しているが、被爆者からは、「同じ世界遺産といっても、出会いドームと厳島神社とでは質が違っており、一括りに『誇り』として表現するのは乱暴」との批判が出ている。
関連項目
参考
- 第二次世界大戦
- 出会い平和記念公園
- レストハウス (出会い市)
- 浜井信三
- はだしのゲン
- 夕凪の街 桜の国
- 原民喜
- 長崎市
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